目で追う。 2019年7月 2019年07月19日 バス停、大分並んでいる。それも小雨が振り寒い。バス停、並んでいる。列後方は気持ち程度の屋根からはとうにはみ出ている。で、私はそれを見てる。重めの車の音が聞こえると、皆一斉に右を向く。"いや、トラックか〜い"なんて顔で皆一斉に前に向き直す。いよいよ列後方のある人が我慢を切らす。半年に一回しか更新されない時刻表を軽く眺めに行く。戻る。もうそこにあったはずの居場所は無い。左隣(だった)人と右隣(だった)人が隣り合わせに並んでいる。また屋根から遠ざかる。 場所は地下鉄、東西線から南北線への乗り継ぎのための20mトラック。ドアの開く音がヨーイドンの合図。皆一斉に、いざ某が乗り継ぎ一番乗り…!とばかりに走り出す。エスカレーターを駆け上がる。時には軽く手も出る。ぶつかったって気にしない。だって私は急いでいるから。 人は何で移動手段の争いになるとああも醜くなるのでしょか。速さを競う姿は陸上選手そのもの。年の差・性別関係ナシ。階級無制限の毎日2本勝負(行きと帰り)。 そんなに急いで何があるのか。そんなに必死になるならもうちょい余裕持てばいいのにね。 自分は違うって思ってるでしょう。でもこの世の中、「自分は違うけど」が集まっているのだから違うこたないんだな。一人一人が大衆の中の一人。 そして私もそう。余裕持って家出るなんてなかなか無い。でも私はあの車の音で一斉に右を向き、20m階級無制限レースを駆けるようなアホみたいな人間にはなりたくない。 じゃあどうするか。バスは次のを待ち、地下鉄も待つ。たかが数分なんだ。でも家を出た時点で余裕なんてない。なので遅刻します。僕の負けです。ありがとうございました。地下鉄といえばこの前酔ったサラリーマンに思いっっっきり足を踏まれました。あっちは革靴。滅茶痛い。でも謝んないの、酔ってるから。でも、そうだよね、素直に謝るってなかなか難しい。間違って靴踏んでも見ないようにして気づかないふりしちゃうよね。許せる気持ちが大事。いや思い返したら奴とは踏んだ直後にバッチリ目合ってたなぁ。もう怒った。絶対許さんからな。地球の果てまで追ってQ。 PR
待てと言われた犬の気持ちは。 2019年1月 2019年01月30日 私は今、人を待っています。喫茶店です。私は人を待つのがとても好きです。無論、来るとわかっている場合に限りますが。 人を待つってとんでもなく意味のない時間というか、ただその人のために時間をただ眺めているような。無駄な時間が嫌いな人は、その間に何かしたり、自身も用事を済ませたりするでしょ。喫茶店で待つってもうひたすら待ってるだけ、本来飲まなくても良いコーヒーを場所代として飲んだり。 ただ、僕は来るかもわからない誰かを待つ行為も、平均より多い回数こなしてると思います。来るかなとか、来たらいいなあと。漫画だとそれは許されるし9割方、"来ます"。 何年か前の冬、僕が高校生だった頃の話ですけど、午前だけの定期試験日でした。早く終わって部活もないので、誰かと遊ぼうかなと。校門の前で。誰も来ませんでしたけどね。一人とぼとぼ帰り道。思い出したら泣きそうになってきましたけど、これ自業自得以外の何者でもないですからね。おい、過去の私よ、そのポッケに入っているスマートフォンは何の為にある。 待つ。待つとは違うかもしれないけれど、この僕の思考回路を直接繋げたようなオール文章ブログを書くのももう三ヶ月振りとかでしょうか。 ブログってアクセス解析とか訪問回数とか見れるんですよ。僕知らなくて。最初の頃とか、一日何十人とか見てくれたり。でも人のやってることって案外すぐ忘れちゃうんですよね。いや、何ヶ月も書いてない自分が悪い。また自業自得です。誰かにこの文字列が届くのだろうか。人が見れる所で書いてる以上、「誰にも見られなくてもいいんです。」とか嘘はつきません。その話はまたいつかすると思います。 よく考えたら、僕は待つのが好きなんじゃなくて、待っている自分が好きなのかしら。自分でこの景色に見惚れているのかな。気持ち悪いですか?そうですか。自分くらい自分のこと好きにならないでどうするのだ。一番の味方なんだから。 そろそろ待人が来そうです、コーヒーとホットケーキおいしかったです。ご馳走様でした。僕の好きなカフェに札幌は大通駅地下のJUIN(ジュアン)てカフェがあります。内装外装メニューに制服と何をとっても昭和の雰囲気そのままです。あと高いです。でもそれが僕には素敵価格に見えます。地下歩行側の席が好きです。座ると歩いていく人皆が見てきます。その視線を感じながら彼らのせかせかと歩く足を見ながら談話するのがお気に入りです。このカフェにも行ってみたかったな。なくなってしまったけれど。
絡んだイヤホン。 2018年10月 2018年10月18日 "いかに効率を求めて、いかに無駄な時間を減らすか"昨今の社会的な総意としてそんな言葉がどこからも聞こえてきます。無駄をなくして、意味のあるモノ・コトだけを残していくような。いや、こうやって書いてると何にも悪いことないようにも思うんですけど、自分でもね。 でも何だか少し寂しい気がして。昭和生まれとか、バブル世代とか、戦後とかこう大まかに比べられる時代を経験している人が羨ましい。僕はどこにも被ってなけりゃ、ゆとり世代もギリ外されて2000年代生まれの称号もいただけませんでした。 あの頃は〜だとかあ〜だこ〜だと言えることもなく、先程述べたキラーフレーズを放つことすら許されぬままこう、お話をするというのは不利ですな、私も「(あの頃、人によって違う)は〜」と話してみたいものです、この話は前もしたな。 話がそれましたがね、今、この時代に名を付けるのなら〜無駄排除時代〜。私が名付け親です。 技術の進歩とともにあらゆる計算が簡単にでき、データ統計もラクラク。そうするとね、見えてくるんですよ。「あれぇ、ここの部分ムダだなぁ」って感じに。こわこわ。 【 A I 】だとか【ロボットに奪われるであろう職業】とか正に、ですよね。費用対効果、よく聞きますわ。 最近、僕のお友達も人件費削減で何年もいたバイト先で出勤日数減らされて怒っておられました。今、私のバイト先にいます、お友達と働くのはお楽しいです。 そういえば私、さっきのお友達もそうなんですけどその他にも2人紹介で入れて今、バイト知り合いばっかり、みたいな。楽しいですよ。当たり前ですけど。でも紹介しすぎて私の出勤日数減らされました、自業自得。いや、これもまさか無駄排除時代の波なのか…。アホか。 最近、AirPodsなるものが流行ってて、ほんとに道行く人すごいしてる。それじゃなくてもワイヤレスのイヤホンに変える人がたくさんです。この前、ワイヤレスに移行したお友達が「絡まらないし、タッチノイズもなくて良いよ。」と言ってました。なるほど、タッチノイズ、確かにそうだ。ケーブルも絡まない。なるほどね。 でも僕はあの、絡まったイヤホンをほどいてる時間が好きなのかもしれない。何の意味もなさない、あの時間が。タッチノイズとかバリバリあるしね、がさがさよ、がさがさ。 あとバスとか地下鉄が混んでて、次に乗るために座ってる時間とかも。忙しなさそうにスマホいじってる人たちを見てる時間。どうせ次も混むのにね。わかってます。 でも無駄がなくなればなくなるほど息苦しくなってくような気がして。そんなに、無駄なことばっかりなのかね。データだけじゃ見えてこないものもあるのかもしれないのに。まあ、データはある一定の信頼度を誇る指標だから仕事とかにはどんどん使われるべきだとは思いますけど。いや、私はぶれるな信念が。 そんな無駄ばかり探さなくてもいいのにね、いつか、あなたも無駄だよって言われてしまう気がして。ではまた。無駄っていう言葉は余裕って変換したらある程度許される気もしますよね。そんなことないですかね?余裕がある人に見られるようにはしてますけど、どう見られてるのか。もしかしたらただアホっぽい人に見えてるかもしれないと思うと面白いですね。面白けりゃ良いや。
また来年。 2018年9月 2018年09月20日 ぼーっとしてたらもう9月も中旬過ぎ。早いです。夏は特に時世の動きが激しくてそう感じます。最近、「時間が経つのが早いなぁ」って言葉が会話のスタンダードと化してしまってもう、やるせないですね。やるせない。 まあ、ぼーっとしていたと言ったのですが今年の夏は十二分に満足できる内容でした。あれをしたこれをしたと思い出語っても面白くないと思うのでしませんが。 ぼかぁ、夏という季節は基本的に終わりが醍醐味だと思っていまして、まさにこの季節のことなのですが。結局、夏の終わりに"夏の終わりだなぁ"なんて夏の終わりを感じて、ノスタルジーに浸ってる間に夏の終わりも終わり、みたいな。 私の周りも遠く見渡すと、この夏に何か新しいことを始めてる人もいれば何かやっていたことが終わった人もいて、終わりに向かってる人もいて。 私自身も何か新しいことを始めたワケではないですが気付いたことはありました。でもこういうのは大体自分で気付いた気になってるだけで本当は気付かされてるんですよね。どうでもいいですけど。 最近、ハッとさせられたのはとある友人からの言葉。「お前ってほんと陰湿だよな。」と。雰囲気悪くしないようにとの気遣いからかそんか不躾に言われたワケではないですけど、まあ思い当たる節もありましたしね。いや、ずっと薄々自覚はしてました。ことあるごとに陰湿スイッチがポチッと入ってるんですね。悪気はないけど、それが一番悪い。 まあ、私の汚点を晒してもあれなのでこれ以上書くのはやめますが、言ってくれる人がいるというのはありがたいことですね。改めて自覚ができます。 "言ってくれるだけマシ"なんて言葉は子供の頃から幾度となく聞いていますが歳を重ねるごと共感できますね。皆、徐々に言わなくなってきます。まずいですね。僕の近くにもいます、言われなかったからそのまま大人になってしまったのだろうなという人が。世の中そういう人ばかりですね。その一人に名を連ねぬよう、頑張ります。 夏が終わると秋が来ますね。残念ながら、私が住んでいる北海道という地は信じられないほど秋が短いですが。8月終わりくらいに北海道で初雪が降ったそうです。ちょっと理解できないですけど。 秋も好きですよ、演劇の大会の時期が被っていたせいかもしれませんが。秋はどことなくおしゃれですね。 まあ、こんな感じです。わかります?ぼーっとしてます。頭が働かないので面白いこと言えませんわ。ぼーっと書いてたらいつの間にか10回目の記事でした。夏のことを散々書いてますけど、もう無理ありますね。また来年まで待たなきゃならない。とか言いながら鬱陶しくも冬にでもまた書くんですよ、どうせ。私は。 そういえば、最近人の物を買う機会が何回かありました。僕はそういうので沢山歩いて選んでってするのが好きなので丸一日いろんなところを探し回るのもザラです。楽しいですね。お金も割とかけたくなっちゃいます。それを知られている人に「〜円以下にしてね!」と指定をこの前受けてしまいました。先回りされた。悔しい。 でもこれが自分のことになると途端に変わりますね、そんな人少なくないと思いますけど。先日は某ハンバーガーチェーン店のフライドポテトを食べたくなりました。かなりの高確率で半額もしくはそれに近い価格でクーポンが出てるのですがその日は定価。迷いました。迷った末、行きました。行った末、休業してました。地震の影響はそんなところにも来ていたんですね。不謹慎。ではまた。先日の地震で私の親戚の一人が亡くなってしまいました。会ったことも無いので何て言ったら良いのかも分かりませんけど。ただ震災と人の死が近く感じる瞬間でもありました。このバンドもボーカルが亡くなってしまってからよくやってるなぁなんて思います。死に際って大事です。ずるいなぁって思うこともありますね。ずるい死に方をしたいですね。そのときはみんな泣いてください。なんて。
遠くへ。 2018年8月 2018年08月25日 先日、友達二人とレンタカーを借りて北海道の東方面へと二泊三日のドライブをしました。 夕張、富良野、十勝、知床、根室、釧路と。 しめて千キロ以上。 この場では時折言っているのですが年齢とともに変わるものは必ずあって、歳を重ねると"世界は狭いなぁ"なんて思うことも少なくありません。 これを僕は"世界が小さくなっていく"ということだと考えていたのですが、どうも違うみたいで。 当たり前なことなんですが世界の大きさなんてほぼ変わらないわけで、単純に感じ方の変化なのだなと。 今回のレンタカー旅行しかり、3月には山形に二度(旅行と免許合宿)行きました。 行ける範囲が広がり、実際に行ったりなんだりしてるうちに「あ、思ったより自分っていろんなとこ行けんじゃん」って感じるからなのですね。 大学生になってからというよりか、普通より少し多くバイトをして免許をとってと幾つか条件が重なっての結果だとは思いますが、遠いなと思っていたところに割と簡単に行けるのは革命的であり、でまた少し寂しいものですね。わがままですね。 まだ中学生、高校生の頃、誰かが本州に行く、行くかもってなった時、"絶対行く!"とか"行くことあったら遊ぼう"なんてことを言ってました。 当時は半ば諦めがあったり、心の中で「(本当にそんなことできるのか?)」という自分への疑いがあったり。 でも今はごく普通に言ったことを実現できるようになり、「あ、凄いなぁ」って自分でビックリします。流石に海外となると厳しいとこありますけど。 実際に周りの人にも北海道を出たり北海道のはじっこに行ったり、なんなら海外に行った人もいますけど、別にとんでもなく遠くなった感じはないですね。インターネットの普及も要因の一つなのでしょうけど。 今も昔も近い関係にいる人はもちろん変わらず近くにいます。当たり前ですけど。 でも、微妙なところに、会おうと思えば会えるし別に特別離れたワケでもない人との距離感は凄まじく遠くなっていく感覚があります。 私の今の生活状況・環境はその距離の人には分からないだろうし、逆も然りです。 寂しいですね、ふと遊ぼうかなって思った時にはもう手遅れなのかもしれませんね。 でも、私がそう思っている人がいるってことはわ私もそう思われてるかもしれませんね。大丈夫です、私は何も変わらずにいます。 歳を重ねるってのはこういうことなのですか。ふむ。 そういえばこの間、青森の大学に行っているやつがこちらへ帰ってきたので遊びました。ご飯食べてカラオケに行っただけですけど。 他の人(私を含める)が歌を歌っているとき奴はいつもスマホいじってます。Instagram見てニヤニヤしてます。 カラオケいる時ぐらいがっつりスマホいじるのやめてくれっていうのはわがまま。でも私はそう思うんですよ。 ゲームとか昔周りの友達もカラオケでしてましたけど自然とやらないようになりました。皆さんどう思います? その例の奴といるといつも「こいつは普段どれだけ周りの人間に恵まれているんだろうか」と思います。これは僕だけの意見ではなく共通の友達との共通の意見。 ただ嫌いになれませんね、楽しいので、こういう対応がまた奴を甘ったれた人間に育て上げる。人たらしはズルいですね。 でも、もしかしたら僕も気づかぬ内に人の優しさに助けられてるのでしょう。きっとそうだ。 これを読んでいるあなたもきっとそうですよ。最近よく思います。 自分は〜から始まる言葉は一度客観的に推敲してみても良いかもしれない。意外と高い割合で間違ってるかもしれません。 それは僕も同じです。こわいですね。間違うもんなんですよ人間。それをわからない人はそれが一つ目の間違い。 それでは。 僕の大好きなSOUL'd OUT。めちゃダサくてカッコイイ。大丈夫です、僕も最初は"カッコイイ"の部分は無かったです。レンタカーの中でも馬鹿みたいに三人で歌ってました。カラオケでもSOUL'd OUT歌いました。その時も奴はInstagram見てました。